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岡山の歴史をレポートするページ ( シリーズ『もっと岡山!!』2頁 )

歴史の風が吹き抜ける
「 岡山県の歴史の仮説 」

 古より『吉備の国』の地名を刻む岡山県は、強大な吉備王国を彷彿とさせる遺跡を残す、歴史ロマンに溢れる地。

 吉備の肥沃な土壌が育む山の幸と豊富な海の幸など、今なお暮らしやすい岡山の住環境が王国を繁栄させた一方で、その盛衰以降、戦国時代を経て名を轟かせた武将は多くない。 恵まれ過ぎとも揶揄される豊かさに、領地拡張という野心は芽生えず、有事に対する備えは薄く、動乱あるたび四方より侵入を許してしまう。

 冬は雪に閉ざされる厳寒の地に生きた上杉謙信や、武田信玄のような武闘派リーダーを必要としない土地、そんな仮説もハズレとは言い切れず。 換言するなら、豊穣なる大地の恵みが個に学習時間を与え、そこに学問に精励する気質が芽生え、争うことよりも、共に学び、創ることに喜びを見出した。

 教育文化県や、モノづくり県と呼ばれる現在の岡山の、歴史文化を醸成したのは、まさに豊穣なる大地であった。 この仮説を否定するほうが難しく。 当エントリーが、そんな岡山の歴史の仮説を検証する、楽しい契機になれたら幸いです。


「 岡山の原始・古代 」

 旧石器(先土器)時代と推察される倉敷市『鷲羽山遺跡』や、蒜山原・新見市『早風A地点遺跡』、鏡野町『恩原遺跡』が確認されている。


「 岡山の縄文時代 」

 平成3年、総社市『南溝手遺跡(縄文後期末)』にて籾圧痕(もみあっこん)土器が出土し、岡山平野のイネの存在物議を醸す。 一方、立証に至る水田遺構は未発見。

津島遺跡&桃太郎スタジアム「 岡山の弥生時代 」

 岡山市『津島江道遺跡(弥生早期)』において、湿田型の水田跡が確認される。

 竪穴式住居と高床式倉庫も同年代のもの。 弥生後期と思しき給排水設備を備えた乾田型の水田も観測された。 弥生中期にはじまった土器製塩に関し、倉敷市『上東遺跡(弥生後期)』、岡山市『百聞川原尾島遺跡』等の製塩炉跡は貴重な発見。

 これらにより、集落の社会的分業を推察。 埋葬儀礼に用いられた弥生時代後期後半の遺物、『特殊壺』『特殊器台』が倉敷市『楯築弥生墳丘墓』遺跡から多数出土。

 首長の権力誇示は次第にエスカレート、古墳時代へと。


「 岡山の古墳時代 」

 前方後円墳づくりは、4世紀末 - 5世紀初頭から約100年と推定。

 墳丘全長360m 日本国内第4位 岡山市『造山古墳(5世紀前半)』と、墳丘全長286m 日本国内第9位 総社市『作山古墳(5世紀中頃 - 後半)』が有名。

 両古墳ともに読みは「つくりやまこふん」。 造山(ぞうざん)、作山(さくざん)と区別する読み方もあり。 墳丘全長206m 赤磐市『両宮山(りょうぐうざん)古墳(5世紀後半)』は、吉備国 稚姫(わかひめ)悲恋の物語、岡山発オペラ「ワカヒメ」の舞台。

 栄華極める巨大古墳の背景に「鉄」がある。 美咲町『月の輪古墳(5世紀前半)』の鉄カス出土が吉備の製鉄を裏づける。 総社市『千引カナクロ谷製鉄遺跡』は、6世紀後半 - 7世紀初頭まで操業を続けた岡山県内最古の製鉄遺跡と認識されている。


「 岡山の国分寺 」

 741年、聖武天皇の命により吉備国に『備前国分寺・国分尼寺』『備中国分寺・国分尼寺』『美作国分寺・国分尼寺』を造営。 7世紀末 - 8世紀初頭、総社市『鬼ノ城(きのじょう)』落成。 「御伽噺(おとぎばなし)桃太郎伝説」の舞台として謎に包まれる。

備前焼と彩り「 岡山の中世 」

 平安時代末期 - 鎌倉時代、岡山の武士の多くは、平氏、京方につき、冷や水を飲む。

 一方では、「法然」「栄西」など、偉大な宗教家を輩出。

 その後、禅僧画家「雪舟」が続き、南北朝を経て室町時代に入る頃には、岡山地方のモノづくり機運の高まりを推察できる。 備前市伊部(いんべ)を中心に『備前焼』や、瀬戸内市長船(おさふね)の『備前刀』など、諸産業の開花期に移行する。

 戦国時代に入り、鳥取方面より尼子氏、広島方面より毛利氏と相次ぎ侵入。 1575年、ようやく岡山随一と謳われる戦国武将「宇喜田直家」が台頭。

雄姿「岡山城」「 岡山の近世 」

 戦国大名 宇喜田直家は、西国有力大名 毛利氏より寝返り、織田方につき、時は進み、羽柴秀吉軍と備中高松城で毛利方を破り、和議締結。

 世にいう『高松城の水攻め(兵糧攻め)』。 時の敗将「清水宗治」が詠んだ辞世の句「世の間の惜しまるゝ ときちりてこそ花も花なれ 色も有りけれ」が伝承される。

 宇喜田直家を継いだ「宇喜田秀家」は、豊臣秀吉の命を受け、金箔桃瓦 を載せた威風堂々たる名城『岡山城』の築城に着手。

 も、関が原の合戦を豊臣方で迎え、伊豆諸島の八丈島へ流される。

 1600年、岡山の宇喜田領は召し上げられ、「小早川秀秋」を経て1603年、「池田忠継」が岡山城、「森忠政」が津山城へ入城。 岡山藩、津山藩が誕生した。

 1632年、岡山藩主に就いた「池田光政」は、行財政や教育など社会基盤整備に注力。 陽明学者「熊沢蕃山」の登用、「津田永忠」の閑谷学校も有名。

先憂後楽の美しさ「 先憂後楽は特別名勝へ 」

 1687年、池田光政を継いだ「池田綱政」が、前出の津田永忠に 後楽園 の築庭を命ずる。

 池に注ぐ小滝の演出、景観が変わる「回遊式庭園」、現在の『岡山後楽園』は、国内屈指の特別名勝に指定されている。

 そうして岡山の藩校教育が結実し、藩政改革の「山田方谷」や、幕末一の洋学者「箕作阮甫」、洋学塾 適塾で福澤諭吉を育てた「緒方洪庵」など、文人、学者を輩出する時期へと続く。 ※ 教育文化県と呼ばれる岡山県に、AAA(最高評価)を得た医療機関が多いことなど、早くから推し進められた学びの恩恵といえそう。


「 岡山の近代 」

 1871年、明治新政府の廃藩置県に従い、備前一帯「岡山県」、美作一帯「北条県」、備中・備後の東部6郡を「深津県(翌年、小田県に改称)」とする3県が誕生。

 1875年、小田県を岡山県に編入。 翌年、備後6郡を広島県に移し、北条県を岡山県に編入し、備前・美作・備中の3国が岡山1県にまとまった。

 初代は鹿児島士族出身の、鬼県令と呼ばれた「高崎五六(たかさきいつむ)」氏。 「鬼」という表現の多い岡山に、桃太郎伝説発祥之地のイメージが強くなる。

倉敷美観地区「大原美術館」「 岡山の歴史が輩出した偉人 」

 近代日本を牽引した偉人のひとりは、第29代内閣総理大臣「犬養毅(号は、犬養木堂)」。

 そして日本の塩田王「野崎武左衛門」、さらに倉敷紡績を発展させた大原美術館の祖「大原孫三郎」など、輩出した偉人もまた多数。

 最後に、倉敷美観地区の大原美術館は、世界的な芸術文化資産で、ご来岡の節のイチオシ鑑賞スポット。 あわせて、豊穣なる地に繁栄した歴史ロマンに触れられる岡山観光を、お薦めしています。 旅のご参考になれたら幸いです。


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【 編集後記 】

 岡山文化観光検定2級 の取得を契機に、岡山の歴史を編集。 余りある魅力の中から、主観に基づきご紹介しています。 ご了承のほど!!


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